やがて雄二は静かに問いかける。
「それで、そこへ行きたいと言うのか?」
雄二の声はいつもより低くかった。真剣な様子が伝わってくる。
雛は緊張し、拳に力を入れギュッと握った。「はい」
「駄目だ」即座に否定する雄二。
雛もそう返されることは予想していた。「なぜですか?
……と言ったところで、いつもの返事が返ってくるのはわかっています」 「わかっているのなら話は早い。あきらめなさい」 「嫌です」今度は雛が即座に返答する。
雄二もそれは想定内だった。「いい加減にしなさい。おまえは女なんだ、剣士にはなれない。
もしそこへ行ったとしても、受け入れてもらえない」 「それはこれから考えます。とにかく私は行きます」雛の頑固さに、とうとう雄二の怒りも頂点に達しようとしていた。
「雛! 許さん、私は断じて許さんからな!
おまえはもう十五だろう、いい加減聞き分けなさい。 もう結婚してもいい年頃だ。いずれ父さんがいい人を見つけてくるから、その人と結婚して女として幸せに生きなさい」一方的なその発言に、雛も黙っていられない。
「父さんはいつもそう、女だからって決めつけて。
私の人生は私が決める! 父さんのことは尊敬してるし、言っていることは正しいのかもしれない。でも、これだけは譲れないの! 私の夢を否定しないで! 私は弱き人々を守るために自分の力を使いたいの。それができないなら生きている意味なんてない。 父さんは私に死んだように生きろというの? そんな父さんなんて、嫌い!!」涙を浮かべた雛は、その場から逃げるように走り去る。
残された雄二は一人、項垂れるように俯いた。「雛……すまない、しかしおまえのためなんだ」
深いため息をつき、雄二は雛が去っていった方を見つめ、ゆっくりと目を伏せた。
その夜、雛は鏡の前で自分の姿を見つめていた。自慢の美しい髪。
月夜に照らされた黒髪は、いつもより数段艶めき美しく思える。若菜にも綺麗だと褒められたことがあり、唯一の自慢だった。
毎日手入れをかかさず、大切にしていた髪。男勝りな自分の、たった一つの女性らしさ。
雛は用意したハサミを手にした。
その刃を開き、髪の間へと差し込む。雛は目を閉じると、思い切ってその自慢の髪を切り落とした。
バサッと髪が落ちる音を聞き、雛は閉じていた目をさらにきつく閉じた。
何かに耐えるように、眉を寄せながら一心不乱に切り続ける。 そうしていなければ、途中で手が止まってしまいそうだったから。 髪を切り終わった雛は、事前に用意していた男性用の着物に着替える。部屋に飾ってあった父から受け継いだ刀を見つめ、一呼吸する。
気合を入れ、それを手に取った。この刀は、父から貰った一番の贈り物。
今まで大切に保管してきた。きっと、父は使ってほしいから渡したわけではないだろう。
「父さん、ごめん、使わせてもらうね……」
暗闇の中に小さな雛の声が響く。
ふと雛の頭の中に父の顔が頭をよぎった。今の雛の姿を父が見たら、とても悲しむだろう。
雛の胸は痛んだ。 しかし雛は、それ以上に自分の信念に従う道を選ぼうと決意していた。「父さん、ごめんなさい」
自分の部屋の机に手紙を置くと、雛は屋敷を飛び出した。
翌朝、雄二は昨日のことを謝り、仲直りがしたいと雛を待っていた。ところがいつもの時間になっても起きてこない雛が心配になり、部屋へと向かう。
「雛?」
部屋に雛の姿はなかった。
代わりに、机の上に一通の手紙が置かれていた。雄二は手紙を手に取り、それを読んでいく。
雛が男装し、昨日紙に記されてあった招集へ行くこと。もしも、そのことで雄二に迷惑がかかることがあれば、自分と縁を切ってほしいこと。
そして、手紙の最後にこう記してあった。『父さん、今まで大切に育ててくれてありがとう。期待に応えられず、このような娘であることをお許しください。愛しています、雛』
雄二はその手紙を握り締め、泣き崩れた。
戦いの中で命を落とすかもしれない、女だということで酷い目に遭うかもしれない。
二度と、もう会えないかもしれない……。もし、今自分が出て行き止めたとしても、雛はきっと同じことをまた繰り返す。
あの子を縛り付けることなんて、雄二にはできない。雛の覚悟がこれほどまでに強いことを、今さらながら雄二は気づき驚く。
そして、後悔に押しつぶされそうになった。しかし、今更悩んだところで後の祭りだ。雄二にできることはもう、天に祈ることだけだった。
どうか、雛が無事に帰ってきますように、ただそれだけ強く願い続けた。
あれから数日後。新たな門出の日が、訪れた。 今日は、私と神威の祝言の日。 まだ春浅い空の下、朝から穏やかな陽ざしが庭を照らしている。 白無垢に袖を通し、鏡の前で髪を整えながら、私は自分の姿に少し戸惑っていた。 真っ白な花嫁衣装に、髪には綺麗な簪。この簪は神威からもらったものだ。 そして、綺麗に化粧された顔に、真っ赤な口紅。 自分ということを忘れて、ほうっと見惚れてしまう。 ――これが、自分。 「とてもお似合いですよ、雛さん」 ふと振り向けば、支度を手伝ってくれていた楓太が嬉しそうな顔で微笑んでいる。 「……ありがとう」 なんだか、恥ずかしいやら、むずがゆいやら。 鏡に映る自分はとてもじゃないけど普段の私からは想像できない。 とても綺麗な花嫁が、そこにいた。 準備を終えた私は庭へと向かう。 屯所の庭の一角には、紅白の幕が張られ、簡素な式台が用意されていた。 若手の隊士たちや仲間たちが左右に並び、静かに見守る中、神威は式台の前に立って私を待っている。 彼の瞳が私を捉えると、その顔がゆるやかに緩んだ。 その笑みを見た瞬間、胸が熱くなる。 私は、傍で待っていた父・雄二の腕を取ると、そのままゆっくりと歩き出した。 白無垢の袖が風に揺れ、足元にひらりと花びらが舞い落ちる。 神威の前までやってくると、父がぽつりとつぶやいた。 「……雛、幸せになれよ」 振り向くと、父は目を赤くしながら、じっとこちらを見ていた。 その瞳にはうっすらと涙が滲む。 私は小さく頷き、父の手からそっと離れた。 そして、神威の手が私の手を掴む。 その手のひらから彼の熱が伝わってきて、思わず指先に力がこもった。 神威は私の耳元で、誰にも聞こえないように囁く。 「……雛、綺麗だよ。 愛してる。 これからはずっと一緒だ、どんなときも」 その低い声が、私の胸の奥まで優しく響く。 胸がきゅっとなり、言葉が出てこない。 ただ目を閉じて、神威の声をそっと心に刻みこむ。 この人と、これからを生きていく。 迷いながら、つまずきながら。それでも二人で。 人々のため、そして神威のため。 ――剣と共に。 その決意を胸に、そっと微笑んだ。 そのとき、風がざあっと吹き、祝福の声が飛び交った
夕方。 太陽が沈みかけ、赤い光が襖を透かして部屋を照らす。 そのやわらかな明かりに包まれながら、私は小さくため息をついた。 刀の手入れをしながら、物思いにふける。 あの事件から一日が経ち、仲間たちの言葉が今も胸の中で繰り返されていた。 私は、今のままでいいのかな。 剣を捨てられない、それでも、神威の隣にいたい。 ――もし、それでいいと言ってくれるなら。 その想いが、私の中で大きくなっていた。 そのとき、襖の向こうから神威の声がした。「雛、入ってもいいか」 たった今、想っていた相手が現れ、胸が高鳴る。 胸の高鳴りを落ち着けながら、私は答えた。「……うん」 静かに襖が開き、神威が入ってくる。 神威の視線が私の手元にある刀へと注がれる。 その瞳がわずかに揺れたあと、私の顔へと移った。「昨日のこと、聞いたよ。怪我がなくてよかった……」 優しい声音と共に、神威は私の隣へ腰を下ろした。 触れ合いそうな距離に彼がいて、胸がざわめく。 今しかない。 ――想いを伝えよう。 私は一度深呼吸すると、少し俯きながら、搾り出すように言った。「私……やっぱり、剣を捨てることができない。これが、私だから。 もしあなたが許してくれるなら……」 じっと神威を見つめる。 彼は目を細め、優しい笑みを浮かべた。「それでいい。俺は……そのままの雛が好きだよ。 最近、雛の様子がおかしいのに気づいていた。ずっと悩ませてしまって、ごめん」 神威が軽く頭を下げる。 じわっと涙が出そうになった。 今まで我慢していた感情が溢れ出しそう。 彼は、私がずっと悩んでいることに気づいていた。理解しようとしてくれていたんだ。 そのことに、胸が満たされていく。 私が俯き黙り込むと
事件のあと、 私は気持ちを整理したくて、屯所の裏手へと足を向けた。 人気のない小道をひとり歩く。 すぐそばの竹林が、わずかな風にざわめいていた。 その音が、心のざわめきを映しているようで――。 私はそっと視線を落とす。 ひとりで考えたかった。 手のひらには、まだ剣の感触が残っている。 助けたあの子の声も、しっかり胸に残っていた。 誰も傷つけずに済んだとはいえ、刀を抜いたあの瞬間、心のどこかで迷いがあった。 一瞬の迷い…… けれど、体はそれさえも凌駕し、先に動いた。 やっぱり私は、普通の女性としてはもう生きられない。 きっと……。 ふと下を向いた、そのときだった。「よっ、雛じゃん。どうした? そんなくらい顔して」 背後から明るい声がした。 振り返ると、宇随が手を振りながらこちらへ近づいてくる。 その横には、楓太の姿もあった。「……ふたりとも、見回り中?」 私が尋ねると、楓太が笑顔で頷いた。「ええ。でも、今日も町は平和ですよ。先ほどの事件以外は」 爽やかに笑う楓太の横で、宇随がにかっと笑う。「町の連中に話、聞いたぜ」 ニコニコ顔の宇随が私に近づき、指でおでこを小突いた。「へへっ、相変わらず格好良かったらしいじゃん? ま、俺たちが出るまでもなかったってわけだ」 そう言われ、私は苦笑し、小さく首を振る。「格好良いなんて、そんなんじゃない。ただ、動いてしまっただけ」「その“動いてしまった”ってのが、雛なんだよ」 宇随の言葉に、はっとする。 それが……私。 呆然と宇随を見つめると、彼は優しい笑みを浮かべてうなずいた。「雛はさ、頭で考えるより前に、体が動くタイプだろ?」 そう言われ、私はまた落ち込んだ。「……それが、いいことだとは限らないけど」
翌朝、私は一人で稽古場に立っていた。 木刀を握る手に力が入らず、いつも通りの動きがどこかぎこちない。 神威の想いも伝わってきたし。 言葉だってあんなにもやさしかったのに。 それを受け止めきれていない自分が、情けなく思えた。「はあ、ダメだ。もっと強くならなきゃ……」 誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。 ふと、外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。 今日も隊の誰かが、町の子たちに剣の稽古をつけているのだろう。 姿は見えないけれど、楽しげな声に心を和ませる。 こんな暮らしが、私の望みだった。 こんな幸せな日常を、ずっと守っていきたい……そう思っていた。 私の力で、この剣で。 そのとき、遠くの方から悲鳴が聞こえた。「きゃあっ! 誰か、助けて――!」 私は木刀を置き、刀を手にして飛び出す。 考えるより先に体が動いていた。 屯所の門をくぐり、辺りを見渡す。 遠くの方に人だかりが見えた。 それに向かって全速力で駆けていく。 人混みをすり抜けていき、人だかりの中心を覗きこむ。 ひとりの男が刃物を振り回し、近くにいた子どもを人質に取っていた。 周囲の大人たちは恐怖で動けず、子どもは泣きじゃくっている。「近づくな! 動いたら、このガキがどうなっても知らねぇぞ!」 男はすごく興奮しているようだ。 変に刺激を与えない方がいい。 私は静かに歩を進め、男の動きを見極めながら声をかける。 「何をしている? ……その子を放せ」 そう言うと、男はいきり立ったように怒鳴り散らす。「うるせえ! 偉そうに説教たれてんじゃねぇ! おまえらに、俺の気持ちがわかるか!」 その瞬間、男が刃を振り上げた。 私は迷わず踏み込み、抜刀。 地を蹴った瞬間、空気が裂けるような音と共に、一瞬で男の懐へと潜り込む。
夜の屯所は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 部屋の行灯(あんどん)の灯りが揺れ、障子にやわらかな影を落としている。 外からは虫の音が微かに聞こえ、心にそっと寄り添ってくれるようだった。 私は、部屋の隅でひとり、膝を抱えていた。 あのとき神威に言ってしまった言葉が、胸の奥で繰り返される。「今の私のまま、あなたの妻になってもいいのかな」 言ってしまったあと、少しだけ後悔した。 それはずっと胸にしまっていた迷いで、彼に見せることを躊躇っていたから。 普通の女の子とは違う私。 私は神威に、何を与えてあげられるのだろう。 彼は何を望んでいるのだろう。 女として何もしてあげられない私と一緒になって、彼は幸せになれるのだろうか。 ここ最近、悩みはどんどん増すばかりだった。 神威や仲間たちと結婚の話をするたびに、祝言の準備が進むたびに、私の心に影が落ちる。 神威は優しい。誰よりも私のことを思ってくれる。 だから、余計に心配だった。 我慢させているのではないかと。 本当は私に、普通のおなごとして生きてほしいと思っているのでは……。 もし、「そのままでいい」と言ってくれなかったら? もし、私に剣を捨てるように求めてきたら――? そんな未来ばかりを想像してしまう。 ふと、人の気配がした。 襖がすっと開く音がして、私は顔を上げる。 神威が、そっと顔をのぞかせていた。「雛、起きてたか」 いつもの優しい眼差しと、目が合う。「うん……眠れなくて」 なんだか落ち着かなくて、俯き加減に小さく頷く。 視線を上げることができず、手をぎゅっと握りしめた。 すると、神威がそっと部屋に入ってくる。 彼は、何も言わずに私の隣に腰を下ろした。 沈黙がふたりの間に沈む。「昼間の
あれから、少しばかり月日がたち、春がやってきた。 屯所も賑やかになり、あちらこちらから子どもの声が聞こえてくる。 あたたかな風が、庭に咲く草花をそっと揺らし、 日差しはやわらかく降り注ぎ、あたりを優しく照らしていた。「……はっ!」 私は、今日も剣を振るう。 屯所にある稽古場には、私ひとりだけ。 普段はたくさんの仲間や門下生、子どもたちで賑わっている。 今日は天気がいいので、外で稽古をしているようだった。 外の様子をうかがうと、神威と宇随が子どもたちに稽古をつけていた。 二人とも楽しそう。 穏やかな笑みや笑い声が飛び交っている。 とくに、宇随は子どもたちから人気がある。 今もたくさんの子どもたちに囲まれ、何やらからかわれているらしく、楽しげな声が響いていた。 まあ、あの明るさや気さくさがいいんだろうな。 逃げる宇随に、追う子どもたち。そして見守る神威。 ふと、神威に視線を向ける。その姿に胸が高鳴った。 私の愛しい人……。 見つめていると、あたたかな気持ちが湧いてくる。 しかし、そのやわらかな想いと同時に、心にそっと影が差す。 最近、ずっと悩んでいることがある。 私はそっと、自分の手にある木刀を見つめた。 心が落ち着かない。 剣の振り方一つひとつに、迷いが映っている気さえする。 何度も構え直すたびに、その心の揺れが形になっていくようで、苦しくなった。 剣は、私にとって武器であり、心の拠りどころでもある。 幼い頃から、いつも一緒で、寄り添ってくれる存在だった。 剣を握っているときは、どこまでも強くなれる。……そんな気がした。 でも、女としての幸せを考えたとき――剣は、どうすればいいのだろう。 剣を握ったまま、戦いに身を投じながら。 愛する人の側に。隣に寄り添い、生きることは許されるのだろうか。 それを望